渋いぞ!甘いぞ!


母が亡くなり
もう誰も居ない私の実家の庭
誰も居なくても・・・
今年も柿の実がなる・・・しぶ柿だ

ひとりで「ぶらり」と行って柿の木を見上げた

生前の頃、母は
よくこの柿をもぎって
干し柿を作ってた

懐かしくて10個ほどもぎって
「つるし柿」をしてみようと思った
見よう見まねだか私の家の軒先につった

つるし方ってこんなんだったかなぁ?
なんて思いながら母をいとしんだ

洗濯ものをベランダに干すたびに
吊るした柿の色が
段々と変わってきて「干し柿」に近づいてきた気がして嬉しかった
母のような干し柿になるかな?と楽しみになってきた

もうすぐ・・・食べれるかな?と
洗濯を干しにベランダに行くたびに楽しみだった

次の日に
洗濯ものを干しに上がると
柿がひとつもない・・・

あっ・・・熊さんだ!
とっさにそう思ってしまった
昨日、美味しそうだなぁ〜と言ってたし
昨日熊さんはお休みだったし・・・

な〜んて疑惑が浮かんだ
帰ってきたら聞かなくちゃなぁ〜
もしそうなら怒るで!しかし!
私があんだけ楽しみにしてたのを知ってたし、そりゃないだろう・・・

なんてことを一人で空想しながら洗濯を干してても・・・なんか寂しい
母の思い出と共に柿がなくなった気がした

まると散歩してると近所のおじさんが
「カラスにやられましたなぁ〜お宅の干し柿」と言う
「えっ・・・」
私の家の柿が全部ないのは「カラス」のせいだったんだ・・・

・・・誤解してた
一瞬でも、熊さんに疑惑を持った自分を反省・・・

人は「誤解されやすい人」「誤解しやすい人」がいると思う

どちらにもそれなりの要素がある
「されやすい人」も「しやすい人」もそれぞれに責任がある
そこに生じるのは「コミュニケーションの不足」だ
言葉が足りないのだ

双方とも足りない言葉を補う気持ちがない時に誤解は生じる

足りないと分かってても補う気持ちになれない時がある
一方通行の気持ち・・・

それは「母を思い柿を吊るした私」と「からすの気持ち」のようだ
しかし・・・これは修復が「不可能」なケースだ
カラスと喋ることができないからだ

しかし人と人なら一方通行の気持ちをどうにかすれば
別れが来る前に修復できる可能性もあるだろう

でもそれが遅れれば遅れるほど修復不可能だ
相手への先入観ばかりが先走りする

ちょうど
もぎとったばかりの「しぶ柿」のようだ

渋いぞ!渋いぞ!の先入観があると
食べる前に尻込みしてしまう

甘いぞ〜甘いぞ〜と余りにも言われたら
「ほんとに?」と少々「うさんくさく」思ってしまう

先入観が先走り
甘いか?渋いか?かじってみなければ分からないのにかじろうと出来なくなる

甘いと思って・・・かじってみたら渋柿だ・・・
「ペッペッ」と吐き出される前に

しぶ柿か?甘柿か・確認したらいいだけなのに
確認しないから吐き出す羽目になったのだ
だから・・・口中に苦い思いをしなければいけなかったのだ

最初から
確認してたら、ためらいもなく「甘〜い」気持ちで食べれたのにね♪
間違いのない「干し柿選び」が出来たのにね♪

カラスは賢い!
木になってる「しぶ柿」は取らないのに
食べごろの「甘い干し柿」をさらっていく

賢いのは「からす」であり
人はからすに劣る!

甘いぞ!甘いぞ〜にだまされてしまう人もいる
この甘いぞ〜の口先に騙されてる人はいつまでも同じことの繰り返し

だから甘い柿を食べてるつもりが
実は渋柿にも劣ってる柿を甘いと勘違いして食べ続けるのだ

・・・見向きもされない「しぶ柿」こそが
あんなに甘い「干し柿」になることが分かってないのだ

渋柿を食べる人はいつもしぶ柿を食べる人生を歩くだろう
甘柿を食べる人はいつも甘柿を食べる人生を歩くのだろう

なくなった「干し柿」の紐だけをみながらそう思ったりする


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            明蘭