なぁ〜霊よ 平成21年10月5日更新 昨日の10月4日より来年の1月11日まで また100日祈願をすることになりました これで 5回目の100日祈願修行です その間にも 毎日、修行をしに行き、自分を高めているのですが 100日祈願の間は、また普段と違う緊迫感があります それが、回を重ねるごとに感じます 回を重ねるごとに「慣れて」いるのではなく 新たな「緊迫感」があるのです 慣れるということは こういう修行のときにはありません! しかし 人間界ではこの「慣れる」ということが、どうも「くせもの」のように感じます 「慣れてきたあたり」に 慣れの惰性で「ピシャリ」と「おしおき」を天からされることがありますよ でもそれを「気づかせてもらったんだ」と解釈される方と 「私ばっかり・・・・なんで・・・」という考え方の二つに分れることが多いです 「私ばっかり・・・なんでこんな酷い目に・・・」と解釈する方は 伸びていきません 「早めに気づかせてもらってありがたい♪」と思える方は 後々、必ず結果を出していっています そういう気持ちを持つまでには、随分と心の修行が必要だったりします でもそれを自分の為に進んでして欲しいと感じます そうでないと、いつまでも「強くなれない自分」のままです 解釈ひとつでも人は変われます 「慣れる〜という言葉が 「なァ〜霊よぉ〜」という感じに聞こえるなァ〜」とお母ちゃんと話していたことがあります 霊であれ人間であれ、感情を持っています あれほど好きで手にいれたかった人も、慣れてきて飽きてきたりします ワガママを言いたい放題になってきたりします そこには互いの信頼関係がないからです そんなとき あなたの後ろにいる霊さんに 「なァ〜霊よぉ〜」などと話しかけてみようものなら その上目線なものの言い方に、憤慨して邪魔しにかかるでしょう そうなりますと なんだか・・・・ものごとが上手く運びません 霊さんとはいえ「ものの言い方があるやろ〜」と怒っているのでしょう 人であれ 霊であれ 人は「なァ〜なァ〜」と慣れ過ぎてはいけないと思います 一線を引くことは大事です 慣れてきたあたりに、人は「安心」を得て そこから「傲慢」を得ます そこらへんで「ピシャリ☆」と気づかされるようなことが 起きる人は神様に見放されていないと思います 神様は その人を見つめています 早めにピシャリとやられた方は幸福です♪ 「この子はええ子やから 早めに気づかせてやろう」と思われているのですから いつまでも いつまで様子を見られている方は 多分、まだまだ「心に邪心」があるから 長く様子を見られているのでしょう 慣れるころに、わが身を引き締めて注意することを心がけて 早めに気づかせていただける人になりたいですね♪ そのためには、自分が修行しましょう 心の修行をして、人と接することに「なァなァ〜の慣れ」が生じないように心がけましょう 誰でも出きることです☆ |